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じょや(福島県在住)です。

子どもの頃に自分の住んでる県の「浜通り」ってところに原子力を使った発電所があると知った。
原子力って・・・あの「ゲンバク」の? 図書室で見たあの酷いゲンバクの。地獄絵図の。
誰に聞いたか覚えてないがこう聞いたと思う「危なくないの? 爆発したら俺たち終わり?」
応えは「うんまぁ終わりだろうな。でもまぁ爆発はしないんじゃねぇかな多分・・・」
・・・多分。確率。確率の問題。自分が交通事故に遭う確率。飛行機が落ちる確率。
隣が火事になる確率。ドロボーに入られる確率。それよりは高い?低い?・・・何%?
とにかく「絶対無いとは言えない」んだ、それは分かっていた筈だ。心のどこかに不安があった筈。
でも「まさか」起こるまい。「そこまでのことは」起こらないだろう。
・・・こうして「それ」が起こってしまってから思い出すと、果てしない疑問と矛盾を感じる・・・
これは森が無くなって自然が滅ぶかもしれないと焦りながらも伐採を許し続けるのと同じこと?

原発が爆発した直後・・・去年の春は「汚染」という言葉に反発を覚えた。
どうにか風評被害を止めるべきだ、と思った。
だから「ここは汚染されてない!物資を届けてくれ!」と訴える絵を描いた。
1人でも2人でも見てくれればと思った。
実際、汚染を怖がって誰も物資を届けてくれなくなればこの県は終わりだと思ったのだ。

しかし今はもう「汚染されてない!」とは言い切れない。
自分自身がそういう意識になってしまった。
国の指定する規準の範囲なら大丈夫だ、と信じ切ることができない。
みんな嘘かもしれない。危険な状態なのに隠されているのかもしれない。
あるいは本当に誰も放射線の影響を見定められないのかもしれない。
どちらにせよ、実際に全ての影響が見えてくるのは、何十年後かもしれない。

「爆発するかもしれない不安」が「蝕まれているかもしれない不安」に取って代わっただけだ。
何もかもが解消される日は来ないのかもしれない。
それでも自分を保ち何かを守り生きていくしかない。
我々は生き延びたのだから。断たれた人たちの無念を考えれば、躊躇していられない。

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